中川財務相はコメディアン
中川財務相の「失態」を耳にして、遅まきながらG7が開催されていることを知ったわけだが、世界に配信されたという大臣の映像はついぞ見ていなかった。
このたびテレビ番組でそのお姿を拝見した。久々に笑った。
もう怒る気力も沸いてこないくらいに、呆れてものも言えないという心境を遥かに通り越して、これはただただ頭でなく腹を抱えるしかなかった。
ぼくのくだらない感想はともかくとして、どうして記者会見のときにあのような状態だったのか、それははっきりとさせておく必要がある。
平たく言えば、ぼくが知りたい。
本人が述べているように、ほんとうに風邪薬の服用によって引き起こされたものなのか。まあ、たぶん違うだろう。
ところでさ、あんなにたくさん記者会見には記者がいるのに、どうして誰も大臣に「あんた、それ、どうしたのさ? 」って質問しないんだろう。単純に知りたくはないのかな。
誰か真実を突き止めてくれ。すぐに分かりそうなもんだけど。
ちなみにぼくは、酔っ払っているようには見えなかった。むしろまぶたが重たくて、そして眠たそうといった、そんな感じ。
とまあこんなことを書いている最中に飛び込んできたのが、これ→http://www.asahi.com/national/update/0216/OSK200902160127.html
6000万円の献金隠しか、それとも単なる借り入れ金か。
地域ブランドより大切なもの
日経リサーチがこのほどまとめた「2008年地域ブランド力調査」で、北関東3県(群馬・茨城・栃木)が都道府県別ランキングにおいてワースト3を独占するという快挙を成し遂げた。
各県の県庁はこの話題で持ちきりらしい。
ぼくは常々、都道府県の単位で地域ブランド力を磨こうとする取り組みの不毛さを訴えてきた。
そもそも「地域ブランド」とは、その地域の知名度やイメージのことを指す。
茨城はともかく、群馬や栃木には全国的に有名な観光スポットが少なくない。
ぱっと思いつくだけでも栃木には、那須塩原(都市ブランド力調査:全国第59位)や日光(同18位)といった場所があり、それらは十分に独自のブランドを活用して地域振興を行っている。つまりシティ・セールスがある程度成功している。
要するに、例えば栃木県の知名度不足は、日光や那須塩原のイメージが栃木県全体のイメージと結びつかないと、そういうことだろう。言ってしまえば、それだけの問題である気もするのだ。
であるならば解決法は簡単。栃木県を日光県に改名すればいい。ブランド力が低いとされる栃木の名称を、知名度の高い日光と差し替えてしまうのである。はやりのOEMみたいなものだ。
こうすれば順位が一気に20は上がるだろう(だから何? って話なんだなこれが)。
東京ディズニーランドだって実際は千葉にあるのだし、そういう大規模な事例に限らず、ある企業の所在地が無名の町村にある場合、あえて近傍の有名都市の名を社名に冠してしまうというのは、よくある話だ。
別の例を出そう。京都へ旅行に出かけるとする。しかし京都府へ行こうと考えて京都へ出かける人はおるまい。実際はみんな、府だとか市だとかの行政単位に関係なく、観光スポットとしての京都へ赴くのである。
かりに京都府の名称が今と別物であったなら、京都府の地域ブランド力は今ほど高くはないはずだ。
逆に県としての認知度はやたらと高いのに、しかしその県にはいったいいかなる名所、名産などが存在するのかをまったく知らなければ、それは意味が無い。
県としての知名度だけが突出して高いのと、その県は無名でも、その中に著名な観光地や特産が存在しているのと、果たしてどちらが望ましい状態か。答えは明らかだろう。
言ってしまえば、那須にしても日光にしても、どうあがこうとそれは栃木県の中にあるのだから、それらの都市が知名度やイメージを上げていくことは、それすなわち栃木県の振興に寄与していると思うのだが、いかがだろうか。
地域ブランドの効能として、その地域への誇りを持たせるとか、活力を与えるだとか、そういうものが挙げられる。地域に誇れるものがもしあるならば、外と同時に中へもっと発信していくべきだ。
地元の歴史や文化、経済、社会などについて、驚くほど無知な人が多すぎるように思う。このような状態では、地域ブランドが上記のような有効性を発揮することは無いだろう。
よその人に紹介したいほどのものを、どうして自分の周りの人には教えないんだろうか。
昨今は、地産池消を合言葉にこういった運動が展開されている。良いことだと思う。
自分たちが誇れないものを、よその他人に売り込めるはずが無い。ましてやそれを知らないのなら、なおさらである。
まあ、他人が評価しているのを知って、初めてその価値を知るというのは往々にしてあることだけど。
愛国心とか愛郷心とか、目に見えないものを愛させるよう仕向けるから、失敗するのだ。
地域に住む人々、彼らが作る産品、連綿と受け継がれる文化、守り続ける歴史、そういったより実体的なものにこそ、愛着って沸くものじゃないかと思う。
いや、違うか。漠然としていて捉え難いものにこそ、そういう対象へ捧げられる愛着こそが、かえって強固で継続的な形になるのか。
まあ、両方なんだろう。
理由は「知らないだけ」
我が家は無駄に部屋が広いので、よく飲み会の会場になる。先日もゼミのメンバーと飲んでいたのだが、面白い発見があった。
ある友人が酒の肴にと青りんごを3個買ってきた。その内の2個は皮をむいて食したのだけど、あいにくと1つだけ余ってしまう。
それは期せずしてぼくの朝ごはんになったのだが、自分だけで食べるのに、わざわざ包丁でむくのもめんどくさい。
そう思い、水でささっと洗ってそのままかぶりついたのだが、これが案外と美味しかった。
こういう風に食べるのは初めてではないけれど、久しぶりではあったので、そういう食べ方で食すことの良い点を再確認した(ついでに記しておくと、皮のついたまま食べたほうが栄養価も高いらしい)。というわけでさっそく青りんごを買い込んだ。
最近の子供は、外で遊ばないらしい。勉強もあまりしないようだ。本も読まず、また固いものも食べない。
ゆえに体力は衰え、学力も低下し、あごの力も弱くなっているという。
どうして子供たちは鬼ごっこの代わりにテレビゲームに興じ、漫画を読みふけり、ジャンクフードばかり食べるのか。
それらの方が楽しいし、また美味しい。それも理由の1つだろう。
しかしぼくは、今の子供たちが鬼ごっこの楽しさ、するめの美味しさ、本の面白さなどを「知らない」というのも理由として大きいのではないかと思う。
数十年やそこらで、人間の選好が目に見えて変化するとは思えない。人間はいつの世もゴシップが好きだし、些細な理由で罪を犯し、そしてポルノグラフィーを愛好する。
知らないなら、教えてあげればいい。もっと言えば、とっかかりだけを与えてあげればいい。あるいは子供の手の届くところに刺激物を置いておくだけでもいい。きっかけだけ与えてやれば、ドミノ倒しのように次から次へと連鎖的に好奇心は波及していくはずだ。
ぼくも漫画を読むし、ゲームもする。しかし残念ながら、漫画を読むこともゲームをすることも極めて非生産的な行為で、快楽を得る代わりに時間ばかりを浪費する。
強いてメリットをあげるなら、友人と共通の話題として盛り上がれるくらいのものだろう。しかしそういう時間というのはバブルみたいなもので、遠からずはじけて後には何も残らない。
学力が低下するのは勉強をしないからで、体力が低下するのは運動をしないからだ。もっと言えば料理が下手なのは料理をしないからで、手先が不器用なのは手を使って細かい作業をしないからだ。当たり前のことである。
バカよりも利口なほうが良いし、体力はあるに越したことは無い。であるならそれらの力を養えるようなきっかけとフィールドをこそ、子供たちには与えてあげるべきだろう。脱脂綿のように周囲のものを何でもかんでも吸収する子供の時分にこそ、たくさんの刺激を。
知らないなら教えてあげればいい。それが教育だ。
知らないことは必ずしも罪ではないが、教えないこと(子供たちに知ろうと仕向けないこと)は罪だ。親が率先してテレビゲームに呆け、スナック菓子をむさぼり、漫画本を読みふけるような環境では、アホでひ弱な子供が育つのも無理からぬことである。
まあ、言うは易し、だけれども。
- 作者: パオロマッツァリーノ,Paolo Mazzarino
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ほんとうはみんな逃げだしたくてしょうがない
元行政改革担当相の渡辺喜美氏が、自民党を離党してからもうずいぶん経つ。
党を離れるとき、現職の閣僚たちから彼の行動を痛烈に非難する声が挙がっていたが、ちょっと言い過ぎなんじゃないの、というほどの雑言もあった。
「もうあいつ…いやあの人とは共に仕事はできん」
こんなことを言った人もいた。言うに事欠いてあいつとは。よほど腹に据えかねたのでしょうな。
ところでみなさん、何をこんなに怒っているんだろうか。
政党ですら離合集散常無き政治の世界で、政党を渡り歩く(政党から抜ける)なんてことはよくある話である。
いまの自民党には400人近い国会議員がいるが、自民党プロパー(議員になったときから今までずーっと自民党員)って意外と少ないんじゃないかな(小泉チルドレンは別ね)。
おそらくほんとうは、渡辺氏に限らずみんな自民党から抜け出したくて仕方が無いんだろうね。次の選挙では九分九厘、勝てないだろうから。
そんな「泥舟自民党」から一刻も早く逃げ出したいのだけど、受け入れてくれる政党など無いし、無所属じゃあちょっとやっていけない。
そこに来ると渡辺氏は無所属でも十分に戦えるし、また自身の選挙区に民主党の候補が立っていない。こうした恵まれた環境にいる渡辺氏が、うらやましくてたまんないんだろうなあ。
卑近な事例でたとえるなら、しょっぱいメンバーばかりが集まった合コンの会場から、一足早く抜け出したのが渡辺氏。自分もできることなら飛び出したいんだけど、周りを気にして出るに出られないのが他の方々、って感じかな。
だからもうそれを平然とやってのけた彼が憎い憎い。
しかして「逃げるが勝ち」とは、まさにこのことかもしれないね。
大河はトレンディに流れちゃいけないと思います
ほとんどテレビを見ない私だが(最近この導入ばっか)、それでも毎週欠かさず見ている番組が、ただ1つだけある。
今年は上杉家重臣の直江兼続を主人公とした「天地人」が放送されている。主演は妻夫木聡だ。
ここ数年、というか物心付いたときから鑑賞してきた気がするこの大河ドラマなのだが、いよいよ視聴を放棄するかもしれない。自分にとってはそれほどの出来なのである。
では何がいけないのか。キャスト? 脚本? 設定? 主人公がマイナーすぎるの? どれも多かれ少なかれ妥当しているのだが、最初はキャストがダメなのかな、とそう思っていた。
誤解の無いようにしっかり申し添えておくと、ダメなのは2人しかいない。阿部寛の上杉謙信はもう謙信そのもので、上杉家中の脳筋武将たちもいい味を出している。羽柴秀吉を演じる笹野高史は、これはハマリ役だぞ、とさえ思う。吉瀬美智子はすんげえ美人だし。
悪いのは吉川晃司の織田信長である。あえてよく表現すればそつがない、悪く言えば平凡に過ぎる。今までの大河なら、信長にはかなり明快な特徴づけがなされていた。渡哲也の信長は従来の冷徹一辺倒のイメージを修正したと思うし、反町隆史の信長は兄貴分的でかっこよかった。舘ひろしの信長は狂気染みていて恐ろしく、あのいっちゃった目つきが忘れられない。
翻って吉川信長はちょっと普通すぎる。毛利両川一方の雄、戦国時代の名将吉川元春の子孫らしいね、この方。まあドラマにはあんまり関係ないけどさ。
けれど百歩譲って信長は我慢しよう。耐えられないレベルじゃない。
しかし、長澤まさみ演じる初音なる架空人物には堪忍ならん。ドラマにいらんだろ、この人物。
長澤まさみは確か前にも大河に出ていた。「巧妙が辻」だったと思うが、そのときも架空の人物の役だった。なんだ、NHKのお偉いさんに長澤まさみのファンでもいるのか。せめて実在しない役どころでもいいから、彼女を出してくれ! と懇願しているのか。これぞ特権濫用だ。
長澤まさみって好きでも嫌いでもないんだけどさ、「腹に一物(背に荷物)」という気持ちを唇の端を上に吊り上げることだけで表現するって、女優としてどうなの。両手を胸の前で交差するように当てて「あー、びっくりした」っていうのと同じ水準じゃないか、これ。
だが、これもまあいい。耐える。ぼくは耐える。堪忍袋の緒をピアノ線にして努力する。
これをいっちゃあおしまいなんだけどさ、やっぱりなんだろう、「トレンディ」というどうとでも説明の付くところ(それゆえに何も解明してくれない)へ行き着くのだろうか。
出演者(の一部)もさることながら、脚本の非・戦国ぶりが目立つ。加えて話の筋もめちゃくちゃ。展開もベタベタ。
ということはトレンディドラマになってもたぶんこれ、ダメだろう。大河ドラマというブランドに寄り掛かって惰眠をむさぼってるな。逆に言えば、大河だからまだ20%なんていう信じられない数値を出してしまうんだ。
NHKのやりたいことは理解できる。NHK大好きのお年寄りと、歴史・時代考証の誤りを探しだすことに執念を燃やす歴史マニアしか見ない大河を、もっと幅広い年齢層に見てもらおうと、特に若者にね、そう考えてるんだろう。
しかし、このキャッチオールの目論見は失敗している。視聴者層の多様化・拡張という狙いが、視聴者層のシフトになってはいまいか。つまり下手にトレンディへ走ってしまったことで、コアなファンを離反させるばかりか、新規の視聴者にも愛想を尽かされかけている、というオチが見え始めた。
それを大河ドラマと同等かそれ以上に感じさせるのは、紅白歌合戦である(でも昨年のはよかった)。
それはともかく、キャッチオールを目指すにしては、網の目が粗すぎる。
NHKはこの辺りで立ち止まって、自分たちの対外イメージというものを再確認したほうがいい。誰もNHKに民放的なトレンディだとかエンタメだとか、そういう役割は期待しちゃいないんだよ。
クラスで目立たない男子が髪の毛を金髪に染めて耳にピアスを嵌め、スラックスを下げに下げてイメージチェンジを図ったけれど、でも中身は変わらないから違和感ありまくりで不自然で無理があるよね、というのと同じ構図だ(どんな構図だ)。
テレビ電波の受信機を持つ全ての世帯から受信料をいただいている以上、より多くの人に見てもらえる番組作りを目指す、なんて、聞こえはいいが要は詭弁だ。願望の内部に矛盾を抱えており土台実現不可能である。
キャッチオールという夢物語を追う前に、受信料制度を今一度根本から再考すべきじゃないのかな。
民放の視聴率競争にNHKまで追随しなくていい。NHKはNHKらしさに忠実であればそれで万事OKなんだよ。それは「NHKスペシャル・ニュース7」的なものね。
NHKというのはああいう民放的なものに虫唾が走る人間たちにとっては最後の砦、最終防衛線だ。それがなし崩し的に突破されていくとき、人々のテレビ離れはいっそう加速する。
原点回帰って、大切だよ。
【追記】でも大河そのものがダメなんじゃなくて、今年の大河がダメなだけかもしれない。そしてぼくだけがダメだと思っているに過ぎないのかもしれない。
やはりあの果物の値段は上がっていた〜そしてダイエット論
大学に入学して一人暮らしをするようになり、いわゆる「主婦感覚」というものが少しずつ身についてきたような気がする。
買い物に関して言えば、例えばスーパーの個々の商品の値段変動に関してとても敏感になった。
といっても膨大な商品の中のほんの一部分なのだが。
そんな中、昨年の後半くらいから急に価格が高騰したと思うのが、バナナである。
近くのスーパーでは1房だいたい100円前後だったのが、最近は300円になんなんとしている。
朝食の定番としてバナナを重宝している自分としては大変に迷惑なのだが、どうしてこういう状況になっているのか分からなかった。
実はテレビで「バナナダイエット」なる体重減量法が紹介されたことが、高騰の要因だったことが後に判明したのだけれど、まるでかつての「納豆ダイエット」の喜劇をまた見ているかのようで滑稽である。
まあバナナ価格の高騰はあくまでぼくの印象のみの話だったのだが、どうやら本当であったらしい。
1月30日付日本経済新聞20面「バナナ、8年ぶり最高値」という記事を目にして、わが意を得たりと思った。まあそこまで言うのはオーバーだが、あーやっぱりなあ、という感じだ。
記事によると、やはり最高値を記録した要因はテレビ番組による「バナナダイエット」の紹介にあるそうだ。なんと売り上げが2倍になったスーパーもあるらしい。
ここからは私的ダイエット論になるのだが、30キロの減量を経験した身から言わせてもらうと、ダイエットにおいて重要なのは、なによりダイエットしたいという志、精神であり、その方法は二の次である。
楽して痩せる方法はあるのだろうが、その分リバウンドも早いだろう。なぜなら、太りやすい食習慣を変えない限り体重は増え続けるからだ。
ダイエットのコツのようなものがあるとすれば、それは早急な成果を求めようとしない姿勢と、長い時間をかけて少しずつ体重を減らしていくという思考だろう。
まあ、大切なのは精神、というのは正直少し言いすぎだけどね。
相応の成果が欲しければ、それなりの努力が必要、という当たり前のことを言っているまでだ。ああ、偉そう。
誰があなた方の日常を見せろと?
ぼくはほとんどテレビ番組を見ないのだけど、冬休みに実家へ帰ったときには、他に何もすることがないので、こたつに入りながらぼけっと画面を眺めている時間が多かった。
なぜかふいにそのときのことを思い出したので、書いてみる。
見ていたのは民放のものまね番組。エンターテインメントの王道と言ってもいいこの“ものまね”だが、いやー、ぼくは度肝を抜かれましたよ。
何が驚いたって、出てくる人たちがぜんぜん本人に似てないの。要はモノマネしてない。だからといって、それを歌唱力でごまかせるほどの力量は無く、また清水アキラやコロッケのようなお笑い芸人的スタンスでもない。出演者たちはわりと真剣に(似ていない)歌を歌っているもんだから、なおさら、見ていて恥ずかしい。
松本梨香が「残酷な天使のテーゼ」を歌っているときなんか、もういたたまれなかった。耳を塞ぎたかった。目を背けたかった。画面を消したかった。そしてなぜこんな仕事を引き受けたのかと問い詰めたかった。
ぼくは思った。これはものまねに名を借りた“芸能人カラオケ大会”なのだと。
ものまねと銘打ってさえおけばそれなりの視聴率は稼げるんだぜうししし、とでも思ってるんだろう。そして案の定、一定の数字が出てしまう。
やっぱり民放の番組なんて見るもんじゃないな、と、再認識した。民放バラエティ番組を見ることの機会費用は、たぶんとてつもなくデカイ。