理由は「知らないだけ」

我が家は無駄に部屋が広いので、よく飲み会の会場になる。先日もゼミのメンバーと飲んでいたのだが、面白い発見があった。

ある友人が酒の肴にと青りんごを3個買ってきた。その内の2個は皮をむいて食したのだけど、あいにくと1つだけ余ってしまう。

それは期せずしてぼくの朝ごはんになったのだが、自分だけで食べるのに、わざわざ包丁でむくのもめんどくさい。

そう思い、水でささっと洗ってそのままかぶりついたのだが、これが案外と美味しかった。

こういう風に食べるのは初めてではないけれど、久しぶりではあったので、そういう食べ方で食すことの良い点を再確認した(ついでに記しておくと、皮のついたまま食べたほうが栄養価も高いらしい)。というわけでさっそく青りんごを買い込んだ。


最近の子供は、外で遊ばないらしい。勉強もあまりしないようだ。本も読まず、また固いものも食べない。

ゆえに体力は衰え、学力も低下し、あごの力も弱くなっているという。

どうして子供たちは鬼ごっこの代わりにテレビゲームに興じ、漫画を読みふけり、ジャンクフードばかり食べるのか。

それらの方が楽しいし、また美味しい。それも理由の1つだろう。

しかしぼくは、今の子供たちが鬼ごっこの楽しさ、するめの美味しさ、本の面白さなどを「知らない」というのも理由として大きいのではないかと思う。

数十年やそこらで、人間の選好が目に見えて変化するとは思えない。人間はいつの世もゴシップが好きだし、些細な理由で罪を犯し、そしてポルノグラフィーを愛好する。


知らないなら、教えてあげればいい。もっと言えば、とっかかりだけを与えてあげればいい。あるいは子供の手の届くところに刺激物を置いておくだけでもいい。きっかけだけ与えてやれば、ドミノ倒しのように次から次へと連鎖的に好奇心は波及していくはずだ。


ぼくも漫画を読むし、ゲームもする。しかし残念ながら、漫画を読むこともゲームをすることも極めて非生産的な行為で、快楽を得る代わりに時間ばかりを浪費する。

強いてメリットをあげるなら、友人と共通の話題として盛り上がれるくらいのものだろう。しかしそういう時間というのはバブルみたいなもので、遠からずはじけて後には何も残らない。


学力が低下するのは勉強をしないからで、体力が低下するのは運動をしないからだ。もっと言えば料理が下手なのは料理をしないからで、手先が不器用なのは手を使って細かい作業をしないからだ。当たり前のことである。

バカよりも利口なほうが良いし、体力はあるに越したことは無い。であるならそれらの力を養えるようなきっかけとフィールドをこそ、子供たちには与えてあげるべきだろう。脱脂綿のように周囲のものを何でもかんでも吸収する子供の時分にこそ、たくさんの刺激を。


知らないなら教えてあげればいい。それが教育だ。

知らないことは必ずしも罪ではないが、教えないこと(子供たちに知ろうと仕向けないこと)は罪だ。親が率先してテレビゲームに呆け、スナック菓子をむさぼり、漫画本を読みふけるような環境では、アホでひ弱な子供が育つのも無理からぬことである。


まあ、言うは易し、だけれども。

コドモダマシ―ほろ苦教育劇場

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パオロ・マッツァリーノ最高!