「ポストモダンに思想は必要か」

この論考は、ぼくの所属するゼミの指導教官から課されました課題作文です。正直いい加減(手を抜いたということ。ちょうどいいということではない)に書きましたので、今のうちにいくつか言い訳をして、予防線を敷いておきます。

1.いい加減に書いた
2.マルクス主義を批判しているが、これは指導教官が徹底したマルクス主義嫌いであるため、迎合した。もちろんぼく自身、マルクス主義の意義は大きく減じたと感じているが、現代に通用する主張は少なくない。また、フランクフルト学派が構築した(している)諸理論や、ポストコロニアリズムカルチュラル・スタディーズなどのいわゆるマルクスの派生商品群も、意義のある見方を提供していると思う。
3.ぼくの専門とは関係が薄い
4.指導教官にはほめられた
5.ぼく自身がこの文章に書いたように考えているかというと、そうでもない。つまり、自分にうそをつきながら書いている。読めば分かるかも知れませんが。


では、一部修正を施しました拙稿をお読みください。





ポストモダンと言われるこの時代に、思想は必要なのだろうか。この疑問への解答を得るためには、まずポストモダンと、そして思想について簡単にでも定義しておかねばなるまい。

その前に、ではモダンを生きる人間には思想が必要であったのかという問いが、当然のことながら提起されてしかるべきだろう。これはおそらくポストモダンにも言えることだと思うが、時流に棹をさし、日々の生活を漫然と送るだけなら、思想などは必要あるまい。“よりよく”この社会を生きて行かんと欲する者にのみ、思想は語りかける。

今、思想に定義をつける作業を一先ず置いて、この言葉を使用してしまったが、この小論においては、思想を次のように定義したいと思う。上記の文章からも大枠が推測できるかもしれないが、思想とは、この世界や社会をより精細に見通し、自らの人生に付加価値を与えることができる可能性を秘めた考え方、としたい。おそらくこのような定義は目にしたことが無いだろうし、疑義を呈したい向きも当然あるだろう。だがここでは、そのようなクエスチョンを脇に置いて、まずは拙稿を一読していただきたい。

思想には定義をつけられたが、ではポストモダンはいかようにすればよいのか。その意味については、20世紀の大思想家たちが繰り広げた、知の闘争の所産を孫引きするのもよいかもしれない。だがここでは、彼らの見解も踏まえつつ、オリジナルの定義を引き出してみたい。

では改めて問う。ポストモダンとは何か。思うにそれは、熱狂する経験が希少となり、また万事において不確実性が影を落とす時代、である。もう少し俗っぽい言い方をしてみる。みんながモダンの熱狂から醒めてしまい、加えて自分どころか所属する社会、国家、世界が今後どのような趨勢を辿っていくのか、モダンよりも想像がつけ難くなった時代、それゆえに、大多数の人間にとっては生きづらくなった時代、こうも表現できよう。

このポストモダン定義は見れば分かるように、2つの要素から構成されている。端的に言えば、虚無(もしくは退屈)と不確実性である。これらは一見、容易に結びつかない言葉にも感じられるが、実は関連している。
モダンは要するに、単線的な人生行路をほぼ全ての人が辿る時代であった。その信頼性は、経済の高度成長に裏打ちされていた。肥大化する経済を背景に、日本人は消費に夢中となる。娯楽も少なかったから、1つのことに多くの人々が、集団で熱狂した。
加えて、共産主義を源泉とする進歩主義の風潮が、社会に蔓延していた。共産主義は絶対であったし、その思想に疑問の余地は存在しなかった。その欺瞞性を指摘する知識人もいたが、声にならない声であった。

しかし20世紀の末、そのような人生行路に突如急ブレーキがかけられる。バブル経済の終焉と、冷戦構造の崩壊である。ブレーキのみならず、信頼していた路線は千々に乱れ、行き先すら分からない行路に、日本人は投げ出された。

こうして現代の日本人は、生き方から確実性を奪われた。投げ出されてはじめて気づいた自らの豊かさによって、がつがつと何かを追い求めるモーレツさに醒めた。世に支配的な考え方であればあるほど、信頼できなくなった。しかし何かに熱狂したい、何かに没入したい。そんな個人的欲求を満たす新たな受け皿が、サブカルチャーであろう。サブカルチャーへの関心の高まりが、ポストモダンの進展と軌を一にするのも偶然ではあるまい。これはあくまで、本論の補足的意見だが。
人生は確かさを失った(古人いわく、人生一寸先は闇、とはよく言ったものだ)。しかし、今までの生き方は捨てられない。現に、捨てなくてもやっていけるではないか。生活は、相も変わらず豊かだ。

だがこれは幻想である。もっと正確に言おう。その豊かな生活は、今すぐにでも幻想になりうる可能性が高い。現在の生活における豊かさは、高度経済成長で築き上げられた財産を、少しずつ、しかし確実に食いつぶしている状態に過ぎない。その財産でさえ、いつともなく消えて無くなるかもしれないのだ。
更に冷戦の終結によって、共産主義という砂上の楼閣が儚く崩れ去るさまを目の当たりにした日本人は、世間の常識というものがいかに脆いか、それを盲目に信じることがいかに愚かであるか、身にしみて感じたに違いない。
生き方においても思想においても、不確実性が横溢する社会に、日本は突入した。

これが、ポストモダンだ。

ではこのポストモダンにおいて、思想は必要なのか。

この問いは、こう言い換えることができる。ポストモダンにおける思想は、退屈と不確実性を打破できるのか、また少なくとも、その打破に貢献できるのか…。もしそれが可能ならば、思想は必要とされよう。
これから探る解答の精度を少しだけ高めておくために、ここで、提起されうる1つの疑問に答えておく。それは、確実で熱狂的であったモダンに、日本は舞い戻ることができるのか否か、というものだ。不可能、もしくは著しく困難、これをとりあえずの答えとして提示しておきたい。過ぎ去ったモダンへの郷愁を引きずり、過去の栄光を追い求めるよりも、今あるポストモダンをいかに生きぬくか、これを考えるほうが前向きだ。

では、解答へと移ろう。ポストモダンにおける退屈と不確実性を克服する手助けをしてくれる、ポストモダンをよりよく生きていくための知恵を提供してくれる、そんな思想が、確かに必要だろう。何せ、不確実なのだ。そして、シラけてしまっているのだ。そんな人生を送りたくない人間には、思想が要る。つまり、普遍的な欲求ではないにしても、ポストモダンに思想は必要だ。

ただ、その条件を満たしてくれる思想(家)が、残念ながら見当たらない。

退屈のほうだったらまだいいだろう。自分が熱狂できるサブカルチャーを見つければいいだけだ。ただ不確実性のほうは、どうしようもない。「不確実な時代を生き抜く思想」そんな思想があればいいが、その思想が前提する体制や社会すらも、いまや不確実である。明日にはきれいさっぱり、なくなっているかもしれない。そんな時代に、信用できる思想などあり得るのか。不確実な時代を生き抜ける確実な思想など、もはやあり得ないのではなかろうか。

単線的な行路を歩めばいい時代は終わった。しかし日本人は、そのころの生き方をまだ捨てられないでいる。路線の多様性は、だが無限に広がりつつある。
ではその無限の広がりに、あえてかけてみようではないか。モダンの単線的な生き方は、確実であっても自由ではなかった。生き方は既に決まっていた。選択肢の数は結局、限りなく1に近似していた。
モダンを脱した今、真に自由たりうる時代を、日本は迎えつつあるのではないか。

リスクを覚悟の上で、ポストモダンをモダンに生き抜くか。あるいは、リスクを受け止めた上で、気が赴くままに自由を享受するか。抱えるリスクの程度は、さして変らないのだ。なら人それぞれ、自分がやりたいように生きてみようではないか。それが許される時代を、この国は迎えつつある。

退屈と不確実のポストモダンを、真に自由に生きてみる。これこそが、ポストモダンにおける“確実”な思想なのかもしれない。





それでは、また。