ふりこはどこまで振れるのか

アメリカの選挙報道を見るにつけ、いつも思うことがある。アメリカ人は、どうしてああも政治に熱狂できるのだろうか、と。

大統領の就任演説に200万人も集まるなど、日本ではとうてい考えられない。今回は役者が一流だというのもあるが、たとえ小泉元首相であっても、万単位の人数は動員できまい。

あれだけ熱情をたぎらせる彼らを見ていると、アメリカはほんとうに危機を乗り越えてしまいそうな、そんな気さえしてくる。

日本で仮に政権交代が起きたとしても、随喜の涙をこぼすのは一部の政治家と後援会の人間たちくらいで、大多数はやっぱり冷めているんだと思う。

むしろこの国では政治に熱を上げるという行為が蔑まれがちな風潮すらある。そうなると、ああして素直に、新しい大統領の誕生を喜べるアメリカ人のメンタリティが、若干うらやましくもある。


ブッシュ氏を継ぐ新しいアメリカの大統領に、バラク・オバマ氏が就任した。

金融恐慌と覇権衰退。2つの危機を眼前にしてオバマ大統領はいかなる手を打つのか。

ブッシュ前大統領の政権下、アメリカの経済は退潮し、覇権は潰えたかにみえる。

経済はより新自由主義的に、外交はより単独行動的に。アメリカ政治の“ふりこ”は右へ大きく振れた。

ではオバマ大統領の下で、ふりこは左へと振り返すのか。過剰なリベラル・シフトは、日本や世界にとって行き過ぎた保守と同等かそれ以上に不幸となりうる。

今あえて新自由主義という言葉を使用したが、いまや先進諸国の論壇で、ネオリベだの社民主義だのと議論しているのは、日本だけなのだという。

こういう少し頭のよさそうな言葉を知ると、すぐに知ったかぶりをして使いたがる衒学趣味のジャーナリストが多くて困るのだが、要は知識をひけらかすどころか恥を上塗っていたことになる。

駐日大使を務めていたハワード・ベーカー氏は、米国の民主主義はある種の「平衡感覚」を持っていると指摘する。アメリカが恒久的にどちらかの「色」に染まるということはない。米国の有権者は保守やリベラルといったイデオロギー固執していないのだ、と。


自分もそう思う。政治に携わる人間は、ぼくらが考えているよりもう少し現実的なのだ。


アメリカ人はきっと、唯一無二の超大国アメリカの後退を目にしてその自信を失いかけていることだろう。それだけ、オバマ大統領への期待は大きい。

しかし、こういった指摘を忘れてはいけないと思う。

ジャーナリストの田勢康弘は「社会は立派なのに政治だけがおかしい、ということはありえない・・・(中略)・・・われわれが立派に生きる努力をしなければ、結局、政治も国も変わらないのである。」と論じている。

その田勢の著書に解説を寄せたジャーナリストの手嶋龍一は「ゆめゆめ優れた指導者の出現に期待してはならない。一国のリーダーになし得るのは、かつてレーガンがそうであったように、その国民に秘められた活力を解き放ち、目指すべき進路を指し示すことでしかない」と書き添えている。


アメリカが本当の超大国として復権できるかどうか、それは当のアメリカ国民自身がどれだけ奮起できるのか、等しくそこへかかっている。


とりもなおさず、それはこの日本でも同じであろう。