“野次馬目線”を超えないマスコミの惨め

ときおり自分の書いた記事を読み返すと、前よりも文章がより稚拙になっているなと感じる。もともと文章力の向上を主眼としたブログであったのに、これではイカん。

最近はしかも、タイトルが多少過激になり、それに伴って内容も正直みすぼらしくなっている。こちらのほうが問題としてはより深刻だ。カイゼンを図らねば。


年の瀬押し迫る昨今、昨日は立て続けに2つの大きなニュースが飛び込んできた。

まずは渡辺喜美議員「造反」の件。民主党が提出した衆議院解散要求決議案に、与党議員でただ1人賛成票を投じた。

次は飯島愛さんの件。この突然の訃報には驚くばかりだ。渡辺議員の事よりも衝撃は大きかった。


今回のブログのネタは前者の渡辺議員のことについてだ。書き始める前からすでにもう、また居酒屋談義の水準に止まってしまいそうな、そんな気がしてならない。

この件にまつわることでこのたび問題にしたいというか、むしろ呆れ果てたのは、毎度おなじみマスコミの報道姿勢である。

「渡辺さん最高!」「ステキ!」「救世主!」という未必のほめ殺しはさておき、2つ指摘したい。

1つ目。自分にはこの渡辺議員の行動をどうして「造反」と表現するのか、これがまず理解できない。

いや、理解はできる。むしろ納得できないというべきか。渡辺氏の行動は、自民党執行部の目線から見れば確かに「造反」だが、大多数の国民の視点から考えれば造反どころか「拍手喝采」であったはず。

アイロニカルな姿勢がこびりついてしまった自分でさえ、起立投票の際に、300人を超える与党議員の中から独り立ち上がった渡辺議員のその姿に、素直に感動した。かっこいいとさえ思った。

解散して欲しいというのは、国民の多くが抱く願いのはず。この言い知れぬ閉塞のムードを打破するには、カタルシスとしての解散がぜひ必要だ。
その意味で渡辺議員の行動は国民多数の意に沿ったものであったはず。それを言うに事欠いて「造反」とは。

ついでに言っておけば、たしかに自民党からすれば「造反」であったかもしれないが、大多数の国民が願う(のであろう)解散の思いを、こうして踏みにじってきた自民党こそが、国民に「造反」したという見方もできるわけだ。

公正中立をモットーとするマスメディアだが、この「造反」という表現から見透かせば、それは実体を伴わない空ろな妄想でしかないことがよく理解できる。

多くの政治記者が、自民党の目線でしか政治現象を切り取ることができない。それを物語って余りある。

読売新聞 「造反」渡辺氏を戒告処分に
朝日新聞 解散要求決議案で「造反」
日経新聞 渡辺氏造反 自民が戒告処分

自分は何も渡辺氏の行動は「正義」だ! と言ってるわけじゃない。だけれども、メディアが公正客観でありたいならば、もう少し違った言い回しがあるのじゃないか、とそう疑問を感じているのだ。


もう1つ。衝撃的な「造反」劇を演じた渡辺氏は、翌日朝の報道番組に生出演した。

自分はテレビ朝日スーパーモーニングへの出演しか確認しなかったが、他にも出たのだろうか。

それはいいとして、ここで言いたいことは、渡辺氏へ質問をぶつけるコメンテーターが、揃いも揃って「よいしょ」と「野次馬質問」に終始していた点である。

「よいしょ」はとりあえず置くとして、「野次馬質問」に焦点を当ててみたい。

渡辺氏は以前から、自民党執行部への反抗的な姿勢が目立っていた。二次補正予算の審議・採決が来年へ先送りされた時期頃から、その行動は次第にエスカレートし、今では自民党離党・新党結成までが公然と囁かれ、そして本人もそれを否定していない。

こういう渡辺氏の現状を反映してか、番組のコメンテーター諸兄は「これは離党へのステップか?」「新党結成は?」といった質問ばかりをぶつけていた。

それを聞きたい気持ちはよく分かる。自分も知りたい。しかしそんなことを一介の民放テレビ番組で漏らすはずはないから、これらは聞いても詮無きことだ。

そんなことは分かっていながら、そういう野次馬質問をしてしまうコメンテーター諸氏の浅薄に、自分は呆れてしまうのだ。

政治家と同じ目線に立つどころか、それより遥かに低い所からしか物事を考えられない、何よりの証拠ではないか。

愚見では、渡辺氏のほうが、コメンテーター諸兄より遥かに先を遠望しているように思えた。

であるなら、渡辺氏の行動を支える信念、動機、そして思い描くこの国のあるべき姿をこそ、彼らは聞き出すべきではないのか。

古い政治家と相似の思考しか保持できず、社会の未来を見通す政治家の信念はフォローすらできない。これじゃあいつまでたっても、日本のジャーナリズムはガキのままだ。“ジャーナリズムごっこ”にはもう飽き飽きだ。

政治ジャーナリズムの罪と罰 (新潮文庫)

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