受け入れ「拒否」は適切さを欠く表現だ

妊婦や乳児の救急搬送が拒否される事例が相次いで報告されている。患者が死亡するケースも多く、病院や行政当局へ非難の声は絶えない。

いまあえて「拒否」という言葉を使用したが、これは現実をいささか歪めてしまう、もしくは本来の全体像をそぎ落として、不十分なイメージを植えつけてしまう、そういった可能性があると感じられてならない。

「拒否」という表現には「本来は受け入れ可能なはずなのにそれをあえて断った」というニュアンスがつきまとう。

もちろん結果的には断っているわけだが、それには当然理由がある。受け入れを断念せざるを得ない病院側の事情だ。つまり人員不足や設備のフル稼働によって、受け入れたくてもそれができず、結局は救急搬送を拒否せざるを得ないという状況が実際に存在している(11月23日付毎日新聞斎藤環も指摘)。

拒否という表現はそういった病院側の事情を覆い隠して、感情的な批判を呼び起こす危険があると思う。引いては有効な処方箋が描かれず、結局は「医者はもっと頑張れ」という最悪の精神論に行き着くことだってあるのじゃないか。

受け入れが「不能」ならば受け入れ態勢を整えるというのが採りうる方策である。議論もではその具体的な方法をどうするかという建設的な方向へ進んでいくだろう(と楽観)。

受け入れ可能なのに拒否しているならそれは職務怠慢で厳しく罰せねばならないが、それは不能とはまた別の問題である。

救急隊員と病院当局とのコミュニケーション不足による伝達ミス、もしくは「他の病院が診てくれるだろう」という悲劇的楽観は、不能の問題とは切り離して考慮せねばならない領域のことだ。

拒否と表現してしまうことは、そういった複雑さを溶解させて事態の本質を不透明にし、病原の根絶をいっそう遠ざけてしまうのではないか。

二階俊博経産相の言葉は崩壊へのオーヴァーチュアを奏でる。「政治の立場で申し上げるなら、何よりも医者のモラルの問題だと思いますよ。忙しいだの、人が足りないだのというのは言い訳にすぎない。」

二階氏は後に発言を撤回したが、こういった認識が社会に蔓延れば、患者も医者も悲劇、いよいよ日本の医療は崖っぷちだ。


医者と患者、政治家と国民、金持ちと貧乏人、悪人と善人、狂気と正気等々…われわれの小さな連帯(があるかどうかは別にして)もしくはつながりを断絶させるような報道はあまり行わないほうがいい(こういう報道を「断絶報道」と呼ぶことにしよう)。


ただし報道に携わる人々の間にはさしたる悪意は無いのだと思う。むしろこういう悲惨な事件が二度とは起こって欲しくないと、そういう思いを込めている人のほうが圧倒的だろう(と勝手に考える)。しかし集合的な無意識、あまつさえ善意ですらもが知らぬ間に悪意を帯びてしまう例は引きも切らない。



日本の医者は総じて優秀で善良だし、日本の医療システムだってまだまだ世界に誇るべき素晴らしいものだ(と思いたい)。その基盤が突き崩される前に、予防措置を講じねばならない。

一部地域の医療現場を持ち出し、まるで日本全体の医療社会が崩壊の瀬戸際に立っているかのように報じるのは間違っている。ごく少数の特殊な人間を引っ張っり出して、まるで全ての医者が変人であるかのように言い立てるのは、フェアじゃない。

風邪を治すのに全身麻酔を施した大手術は必要無いように、ある症状が身体全体に致命的なものなのか否かは、慎重に判断しなくてはいけないと思う。ところが慎重になりすぎてもいけないから、このバランス加減の適当なポイントを見つけるのは非常に難しい。



ジャーナリストの日垣隆は、そういったいたずらに危機感を煽る人々を「オオカミ少年」と形容し、パオロ・マッツァリーノは「スーパーペシミスト(超悲観主義者、略してスーペー)」と呼ぶ(しかし自分も「悲劇への兆候」とか「崖っぷち」とか、十分に扇情的だ…スーペーを批判すると自分もスーペーになりかねないというジレンマが)。

これについては書きたいことが山ほどあるから、また別の機会にしよう。



もっともこの件に関しては、医師の待遇に目を向けた報道が比較的多いので、悲観はしていない。しかし言葉の使い方には気を付けた方がよい。


参考文献

正義の味方に御用心! 偽善系 (文春文庫)

正義の味方に御用心! 偽善系 (文春文庫)

反社会学の不埒な研究報告

反社会学の不埒な研究報告