今年もあとひとつき
11月のうちにエントリーを上げようとしたのだけど、はてなに阻止された。あまりに頻繁なこのシステム障害はいったい何故なのか。
小泉毅について書こうとしたのだが、辺見庸の劣化コピーになったので投げ出した。
詳しくは↓
- 作者: 辺見庸
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1998/02
- メディア: 文庫
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ポイントはこうだ。メディアは小泉毅を狂気の人間だと結論付け、これは狂気の沙汰だと総括し、そそくさと次の話題へと移っていった。
火は出たのだけど対岸での出来事であり、自分たちの世界にはあまり関係がない。
ほんとうにそれでいいのかな。二項対立を持ち出して簡単に片を付けていい問題なのか。片付けるという表現は言い得て妙だ。事件の検証ではなくてお決まりの“フレーム”(今回はキャリアで挫折したエリートくずれが社会に嫌気がさして偏執狂的に記憶していた恨みを見当違いの方向へ晴らしました、の枠組み)にはめて事件を再構成し視聴者へ提供しただけ。賞味期限が切れるとポイ捨て。
型付けて片付けた。
ぼくらは実のところもっと多様な見方をしたいし、メディアにはそれを期待しているのだけど、どうやらダメみたいだ。
ニュースがまるでフォーディズム的に生産されお茶の間に配達される。
辺見さんの表現を借りれば、メディア・ファシズム。
ポストフォーディズムの時代に、模範的なまでのフォーディズムな生産様式を発見した!
以上、8割がた辺見さんの受け売り。
マスメディア流「善悪の彼岸」論法は、政治の世界にも適用されている。政治はぼくらと関係の無いフィールドでの営みであり、更にはうす汚れていて、加えて政治家や官僚は尊敬の対象ではなく侮蔑して唾を吐きかけ、そしてこき下ろすことでワイドショーの種になるだけの存在でしかない。
政治不信と騒ぎ立てておきながら、その傾向に一層拍車をかけているのはマスメディアなんじゃないかと疑いたくなる。そうでもしないと政治が商品にならなくなってしまうから。
ところがデモクラシーというのは選挙を媒介にして政治と国民の間を絶えずつなぐことで成立する一種のサイクルで、そこで繰り広げられる物事がぼくらと関係ないという道理は無い。
これは気の利いたコメンテーターがごく稀に指摘するのだけど、顧みられることは少ない。
こいつはなんて愚かで役立たずで頑迷でおまけに顔まで醜い政治家なんだ、と思う人に限っていつまでも「先生」でいられるのは、それはぼくらが選挙で彼らに投票するからに他ならない。
有権者はしっかりと物事を見てますなんてしたり顔で言う識者が、それも大勢いるのだが、見当違いも甚だしい。おとといきやがれだ。そうして有権者に媚を売っておけば済むなんて考えてもらっちゃ困る。有権者もそれで「やっぱり政治家ってバカよね。それに比して私たちはよく分かってるよね」とか図に乗るんじゃないよ。
有権者は立派なんだが政治家は愚かしいなんて状態はありえない。政治家が三流なら有権者もそれと同等。その国の政治の姿こそ国民のあり方を明瞭に示す鏡。
人のふり見て我がふり直せ。自己利益の追求に固執した政治家の跳梁を嘆くのではなく、むしろそれを自らの恥と認識せねば。恥の上塗りはそろそろ止めにしよう。
民主政治とは政治家や官僚の専売特許などでは断じてなく、国民全体で織り成す営みなのだ。
そういう認識を持たないと、いよいよいけない頃合いなんじゃなかろうか。
これは田勢康弘さんの受け売り。
- 作者: 田勢康弘
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1999/11
- メディア: 文庫
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