なぜあの人が、あの子が、のなぜ

また少年による犯罪があった。今度はバスジャック。過去にも似た事件は起っている。取り立てて特殊と言うほどのものではない。

逮捕された少年は、親に叱られたその腹いせで犯行に及んだという。呆れる動機ではある。

学校での彼は学級委員長を率先して務めるなど、積極的な面が目立つ生徒であったようだ。

よくある「どうしてあの子が…」のパターン。

こういう感想を耳にするたび思うことがある。あの子がなぜ、ではなく、あの子だから、犯罪に手を染めるのだと。

彼は彼女はいい人いい子だから、周囲からの期待を過剰に背負ってしまう。周りが望むような自分を無理にでも形作ろうとする。

お誂え向きの人格が形成されると、周りの評価と期待はますます高まり、それをまた正確に反映して…の繰り返し。

自分の本意と自分の外面が少しずつ、しかし確実に乖離していく。

その結果として、自然フラストレーションが溜まる。だけど、反社会的な方法でそれを発散するわけにはいかない。

そう、彼はいい子だから。

しかしながら彼も彼女もいい人を装っているだけであって、その努力が限界に達したとたん、ぷっつんしてしまう。

いみじくも曽野綾子さんはおっしゃった。『「いい人」をやめると楽になる』と。

「いい人」をやめると楽になる―敬友録

「いい人」をやめると楽になる―敬友録

積もりに積もった不満はある日突然、その許容量を越えて、ささいなことをきっかけに爆発する。そして普段の言動や行動からは想像もできない行為にその人を走らせてしまう。

つまり、普通の人だって犯罪者になる。

むしろ学校の不良とか暴力団みたいに日常的に犯罪をしている方々は、逆に言えばそうやって日々ストレスを解消しているわけだから、突然に何かをしでかす可能性は高くない。

しでかすにしても、事は予測が可能な範疇に留まる。

今回の事件の文脈でいえば、問題は、優等生がどうして犯罪に及んだのかではなくて、優等生はどうして日常の不満を他の人がやっているような、平和的な方法で解消あるいは我慢することができなかったのか、という所に行き着くのではなかろうか。

いい加減、どうしてあの子が…の構図から抜け出さないと、先には進めない。


―以下、蛇足―

もっともいけないのは、新聞なんかのコラムでよくやる「社会が病んでいる」の論法。これではどこの誰がどうダメなのかがさっぱり分からない。居酒屋談義の水準だ。

もっとも、ぼくのエントリーもそこは同じ。しかたないね、文章を書くほうが優先だから。


と、中島義道を読んで感じた。無意味に社会へ毒づいてみる試み、終了。