漫画家に会ったという話

大学の構内で、漫画家を名乗る男に声を掛けられたのは、6月の初旬ごろだったと思う。

年のころは40代。黒縁のオーバルメガネをかけた小太りで、頭頂部の髪は薄く、年相応に見えた。アロハシャツに半ズボン、首からデジタルカメラをかけ、小道具や漫画の原稿を入れた手提げ袋を持っていた。

「いま漫画を描いているんだが、モデルになってくれない? すぐに終わるから」

怪しさが服を着たような外見の人だったが、断る理由も無いのでしぶしぶ協力した。

図書館の周辺で、10分ほど写真を撮られた。ひとしきり撮影をすると、執筆の参考にするのか、話をいろいろと聞いてきた。

ぼくはどうしても彼の怪しさを払拭できなかったので、まず本当に漫画家なのかどうかを確かめたかった。

ネームを見せてもらった。もうペン入れがしてあったのかどうかは、覚えていない。たぶん、まだだったと思う。

2時間くらい立ち話をしていたが、終始彼にまとわりつくいかがわしい雰囲気に圧倒されて、なかなか打ち解けられなかった。

今思い返せば、連絡先でも交換しておけばよかったなと後悔することしきりである。

男は山田たけひこと名乗った。漫画に疎いぼくには、その名前は初耳だった。

すぐあとに調べてみると、単行本をちゃんと出しているれっきとした漫画家であることが分かった。

ネームを拝見した時点で気づくべきだったが、ああ、まったく貴重な機会をみすみす逃してしまった。

出版業界のいろいろな話が聞けた。彼の生い立ちも話してくれた。高校生の頃に漫画賞をとったこと、昔は単行本も出していたが、今はケータイ漫画の仕事しかないことなどなど。

だけど何より印象に残っているのは、この言葉だった。

「人には思い出と共に心へ刻まれる音楽がある。その音楽を聞くと思い出す情景がある。そういう経験をしないようになったら、本当に老けたということかもね」

最後のところはちょっと定かじゃない。もっと違うことを言っていたかも知れないが、ニュアンスとしてはこういうことだったと記憶している。

音楽をあまり聞かない人はじゃあどうなのかなと今は思うが、それは取るに足らないことなんだろう。

手伝ってくれたお礼だよと言って、彼は缶コーヒーをおごってくれた。

柔らかい肌 1 (ヤングサンデーコミックス)

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空がとっても青いから (ヤングジャンプコミックス)

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初蜜 5 (ヤングサンデーコミックス)

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