「梅雨」

雨露に濡れたあじさいのはなびら。葉をゆったりと這うかたつむり。その様子を真剣なまなざしで見つめる子ども。母親が早く来なさいと急かしたてる。日本の梅雨にありふれるのどかな光景。

しかし残念ながら、そのような牧歌的な情景ばかりではない。極めて残虐な梅雨も世の中にはある。

「大量虐殺の梅雨」と呼んでいる。かといって、先ごろに秋葉原で起きた無差別大量殺人とは何の関係もない。殺戮されるのは人ではなく、虫、とくに小さな羽虫である。

じっとりとした湿気や長くしとしと降り続く雨。これらに梅雨の到来を感じるのが一般的であろう。中には気象予報士からテレビ越しに伝えられる情報を耳にして、初めてそれを自覚する感性と季節感に乏しい方もいるかもしれない。

しかしこの俗世には、無数に発生する小さな小さな羽虫に、梅雨の来るを思う人間もいる。

そういう人にとってこの季節は、虫たちとの終わりのない闘争に彩られる。いや、決してそうではない。忙殺されるというほうがはるかに正しい。これから書き綴るは、そんなある闘争の記録である。

このエッセイを執筆している瞬間にも、パソコンのディスプレイには羽虫が飛来し、画面に小柄な体を体当たりさせては下の方にすーっと落ちていく。キーボードの間の細かい隙間にも彼らはそそくさと入り込む。しかしそこに迷い込んだが最後、二度とは外に出られない。小うるさい連中だ、いい気味である。

部屋の電灯へ、脇目も振らず一直線に向かうものもいれば、力尽きて真っ逆さまに地上へ落下していくものもいる。新聞紙で明かりをおもいきり扇ぐと、小さな彼らの亡き骸がぽろぽろと零れ落ちる。

悲惨なのは夜に帰宅した時だ。つけっぱなしにした電灯の周りには、既に無数の羽虫が飛び回る。天井にはそれをはるかに上回る数でびっしりとへばりついている。ここは俺たちの家、お前の来るところじゃないんだと言わんばかりに。

その虫たちにとって大変に気の毒なのは、家主が彼らとの共生に並々ならぬ不快を感じている点であろう。更に言えば、平和的な解決方法を模索する余裕も知恵も精神も無い。よって原状の復帰のため、止むを得ず実力行使に打って出ざるを得ないのだ。

部屋には、カーペットやフローリングのホコリやチリを粘着テープで巻き取る、いわゆる「コロコロ」が備えてある。本来それは床に向けて使用するものだが、羽虫の殺戮においてそれは天井に対して用いられる。そのものずばりローラー作戦である。広範囲に付着した羽虫を効率的に駆除できる点で、この道具は非常に有用だ。

他の物理的な対処法としては、直接に指でつぶす、という極めて古典的だが効果の高い方法があげられる。厄介なのは、家主に思い切りのよさがないことだ。つまり、彼らを圧するときに憐憫の情が働いて、その力を弱めてしまう。言うまでもなく、結果的に虫たちは半殺しという絶望的な状況に追い込まれ、のたれていくことになる。指を用いて直に虫と触れるため、このような感情が湧くのだろうか。道具を使うときは躊躇も容赦もしないのに。いずれにせよきわめて身勝手で残忍な犯行であることには変わり無い。いま憐憫とか何とかいったが、もしかすると、ぷちゅとつぶしてカーペットや自分の手が彼らの死骸で汚れることを、ただ忌避しているだけなのかもしれない。いや、きっとそうだ。相違ない。

読者の中には次のような疑問を持たれる向きもあろう。「なぜ殺虫スプレーを使用しないのか」と。実は今、化学的な対処法を鋭意検討中である。彼らには効果覿面で、人体にはできるだけ無害なものを選ぼうと考えている。まったくエゴそのものだ。

こういった一連の闘争の足跡は、無論、生涯に始めて記録されたわけではない。昨年も同様に経験した。そのときは、虫たちにもう少し寛容であった気がしている。

風の谷のナウシカ」という宮崎駿の代表作がある。作品中「蟲」たちに危害を加えた人間は、その後に遠からず彼らから報復を受ける。それも並々ならぬ規模で。同様のことを心配せぬでもないが、自然界の過酷な生存競争ゆえの結果であり、仕方の無いことと思う次第である。

いま競争といったが、彼ら小さきものたちは、その大きさゆえにさしたる力を持たない。加えてくる危害といえば、食べ物への吸着、視覚的な不愉快、うっとうしさ程度のものであろう。冷静になって思えばこれは競争などではなく、やはり一方的な殺戮に他ならない。

考えてみれば彼らの寿命など、人間の一万分の一にも満たぬ、きわめて短いものでしかない。それを思うと、むやみやたらにつぶして回るのも気が引けてくる。これからはできる限り、手で払うだけにしようか。

虫とこのような争いを繰り広げるのは、梅雨のこの時期だけである。夏の足音が近づくにつれて、間も無く終わりを告げる。

今ヘッドフォンを通して聞こえる音曲は、ロシアの生んだ作曲家ビョートル・チャイコフスキーの手になる交響曲第六番「悲愴」である。その副題のごとく悲しく痛ましい羽虫の生涯に思いを馳せれば、多少の不快は耐えてしかるべきという気もしてくる。

彼らとの闘争が終わるとき、梅雨も終わる。服を蝕む湿気でも、降りしきる五月雨でも、さわやかな五月晴れでもない。大量殺戮のみによって着色されたこの忌まわしい季節は、しかしまだ始まったばかりなのだ。