秋葉原無差別殺人に思う

なんと忍耐に欠けた若者だろう。こういう短絡な感想を持つのは簡単だ。

先日に秋葉原で起きた無差別殺傷事件。7人が殺害され、10人が重軽傷を負った。

犯行の動機、その全容は未だつまびらかではないが、職場への不満が直接の動機になった可能性が高いと、報道は伝える。

作業服のつなぎがある日、ふいに無くなっていたという。「俺は必要とされていない」と、そう感じた。

容疑者はいわゆる「おたく」であったことも分かってきている。

そのことが犯行に結びついた可能性は無いと思うが、場所の選定には少なからず関係していたのかもしれない。

東京と言えば、渋谷でも原宿でもなく秋葉原

人であふれる秋葉原

自分ともそれなりの縁がある秋葉原


無辜の市民を多数殺害し、また多くの人たちに浅からぬ傷を残した。「人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」とは、身勝手きわまる。

一方で犯人は、こうも供述している。

「世の中がイヤになった。人生に疲れた。生活に疲れた」鬱積した不満が、職場での出来事を契機に爆発したのだろう。

かといって人生や生活には疲れても、人を殺す計画を綿密に立て、そしてそれを実行に移す余裕だけはあったらしい。

彼にはおそらく、人生で最初で最後の「事業」であったのかもしれない。

こういった犯罪は、今後も続くのだろうか。だとしたら、どうやってそれを防げばよいのだろう。

自分の子供や友人、同僚や家族がこのような人間にならないために、わたしたちはどうするべきなのか。

それを考えるためにも、捜査当局は原因の究明に全力をあげていただきたい。


同情から述べるわけでは決してないが、犯人は孤独な人であったのだと思う。これだけは分かる気がする。

ほんの少しだけアカデミックな表現をしてみる。彼は他人から「承認」を得られず、また社会との望ましい「連帯」を構築できなかった。

人から何か認めてもらえるようなことは無く、また悩みを打ち明けられるような気の置けない友人もいなかったのではなかろうか。

自分には社会から「承認」を得る手段も、また「連帯」を築く機会も、絶望的に不足している。もういやだ。彼はこう思いつめたのかもしれない。

正当な手段でそれらを手にすることができないなら、不当な方法に訴えるしかない。

大勢の人をセンセーションに殺害することで社会から「承認」され、人を殺すという異常な形で「連帯」するしかなかった。

この事件の示唆する病巣は暗く、そして深い。しかし、完治のできる病ではないにしても、発症を未然に防ぐ術はあるはずだ。この犯罪は起こるべくして起こったわけではない。

多くの人々が、満足の行く水準ではないにしても人生に生きがいを感じている。生活に不満を抱えながらも、それを我慢して生きている。大切な友人の1人や2人は、必ずいる。

しかし容疑者にはそれがなかった。

では、彼と私たちを分かつものはいったい何なのか。それはまだ分からない。だからこそ考え続けていかなくてはならないのだと、私は思う。





犠牲者の方々のご冥福を、心より祈念いたします。