デモクラシーとクリエイティビティー

政治学を少しは真剣に学んでいる人間なら、デモクラシーとは何か? また、なぜデモクラシーなのか? ということについて、少なからず思いを巡らせた経験があるだろう。

かくいうぼくも、なぜデモクラシーなのかという問いに関しては、ことあるごとに考えている。

デモクラシーそれ自体を独立した問題系として捉えるか、あるいは時事的なテーマと結びつけて考えるか、だいたいそのどちらかだ。もちろんこの両者の関係は密接であり、完全自立の疑問というわけではない。例えば。中国は本当に民主化すべきなのか、アメリカの価値観外交はなぜデモクラシーの押し付けを行うのか、下からの民主化というのはあり得るのか…等々。


たしかにデモクラシーは、人類が集住し始めた古来にその始祖を見出すことができる、とても古い遺産だ。加えて絶対君主政や共産主義社会主義、あるいはファシズムなどとの政体闘争にことごとく勝利している。古いものはいいものだとは言わないが、時の試練を経たというその事実はやはり重い。


ただ今回は、そういった歴史的なアプローチではなく、デモクラシーと選択の幅、という観点から、ほんの少しだけ語ってみたいと思う。


デモクラシーとその他の政体の間に横たわる、決定的な差異とは何か。これは中々に根本的な疑問であり、容易に答えが出る類のものではない。しかしおそらく、その差異の1つとして挙げるに足る要素として、「選択の幅」があると思う。

その被治者=治者さえ望めば、デモクラシーはデモクラシーさえ破壊することができる。それは極端な例だが、一般的にデモクラシーというのは、選択の幅を他の政体よりも広範に保障できるしくみである。これがなぜなのかは分からないが、現実世界を見てもらえばそこは理解してもらえると思う。


選択に幅があるから、人間は考える。考えるから思い悩む。悩みぬいてそこから答えを出そうとする。その過程は高度に創造的だ。創造は個人を育み、ひいては社会の活力となる。

選択肢が1つであったとしよう。考えないし、悩まない。悩まないから本当の答えを探そうともしない。創造の過程はすっぽり抜け落ちる。


もちろんこれは一面的な見方であり、デモクラシーがいつも選択の幅を保障してくれるとは限らない。55年体制下の日本を見よ! って今もそうなのかな。


デモクラシーの定義なんてごまんとある。ただ、選択の幅を広範に保障してくれる政体というのは、デモクラシーに極めて近いと思う。デモクラシーと言い切ってしまう自信は無いけれども。


デモクラシーが選択の幅、自由を保障し、それが創造性に結びつく。われながら実に楽天的だ。


なぜデモクラシーなのか、それはまだわからない。もしかしたら、デモクラシーは違うのかもしれない。だから、ずっと考え続けていきたい。