党派性と政治教育、そして政治的関心

日本人はとりわけ、党派性への拒否感が強い(支持する政党を持ちたがらない、ということ)。社会変動に伴う価値観の変容(ロナルド・イングルハートの「脱物質主義的価値観」)といった要因(正確に言えば、そういった価値観の変容を政党が政策・理念的にフォローできなかった)を取り除けば、その少なくない部分は政党の側に問題の源泉がある。

といって今日はそんな政党政治の批判を行おうという主旨ではなくて、政党に属するということが、個人の政治教育に及ぼす影響、そして政治的関心を呼び起こす可能性について、さらりと論じてみたい。


卑近な例を使って説明しよう。好きなプロ野球チームを持たないプロ野球ファンというものが果たしているだろうか、ということを考えてみて欲しい。おそらくプロ野球に興じる人というのは、応援するチームを1つ(あるいはそれ以上)持っているはずだ。でないと、観戦しても面白くない。目の前で奮闘する野球選手たちは、自らがかつて諦めた夢を今でも追いかける存在、夢の代替的体現者として現前する。彼らに若き日の捨て去りし夢を託して、泥だらけになりながら白球を追いかけた自らの在りし日の姿を重ね合わせ、彼らは熱中するのである。

話がいつの間にかあらぬ方向に脱線したが、もう少しだけ思考を進めてみる。では、好きなチームを持つ人は、プロ野球そのものにも興味がある、これも言えるだろう。応援するチームがあるのにプロ野球が嫌いなファンのイメージというのは、いささかつかみづらい。

加えるとすれば、プロ野球ファンはプロ野球の現在や歴史、またはルール、好きなチームの状態や、応援する選手の成績や来歴、更には今シーズンの展望などについても知識を蓄え、思いを至しているであろうことは想像にかたくない。


この話を政党政治の文脈に移してみると、次のような側面が浮かび上がってくる。つまり、政党への帰属意識、もう少し俗な言い方をすれば支持する政党や政治家がある有権者というのは、政治的な関心や知識にも秀でている場合が多い、ということだ。

ただ政治がプロ野球と違うのは、いわゆる無党派層の中にも、政治的な関心や知識の高い人が少なからずいるという事実である。

がしかし、これは考えないでおこう。少し付け加えておくと、こういった層というのは全有権者の1割弱を占めると言われる。


支持する政党がある有権者は、政治的な関心を高く持ち、それに伴って知識も蓄えていく。


今の日本で、広義の政治ジャーナリズムに携わる人や政治を専門に学ぶ人以外に、政治的な関心や知識が極めて高いのは、政治家の個人後援会に所属する専業主婦のおばちゃん、と噂される。ある自民党議員の個人後援会に所属するおばちゃんのあまりの政治的博識ぶりに、ぼくは度肝を抜かれたことがある。

まさか、マックス・ウェーバーの心情倫理と責任倫理の話を持ち出して、現代日本の政治家を批判するとは思わなかった、ということです。


再び話がそれていきましたが、政党支持層は支持政党の政策についても一般的には詳しい知識を持っています。加えて、対立政党の政策についても同様に知り得ていることが少なくありません。


アンチジャイアンツファンはジャイアンツのことばかり話している、というのと同じ構図です。

そしてそれと極めて似たイメージを持つのが、アメリカの二大政党政治です。民主党支持者は共和党の政策を、共和党支持者は民主党の政策を、という具合に政治的な関心を基礎にして政治教育が広範になされる仕組みとなっています。


さて、ここまで話してきたわけですが、ぼくは何も、日本の有権者は党派性を持つべきだ! と声高に唱えたいわけではありません。昨年サントリー学芸賞を受賞した飯尾潤さんはそういった主張をされていますが、ぼくにはまだそこまで結論付けて自らの論旨を展開できるだけの知識が決定的に不足しています。


かといって、市民が政治的な関心と知識を増して政治参加の機会を有効に活用することは、国家権力に対して影響力のあるガバナンスの行使に結びついて、民主政の漸進的な発展につながりますし、為政者の恣意的なコントロールに対する防波堤にもなり得ます。ひいては国家から自立した存在としての自己の全的な確立につながるかどうかはわかりませんが、これは必ずしも悪いことではありません。


では党派性の無い人は一体どうやってそれを身に付ければいいのでしょうか。残念ながらわかりません(肝心なところでだめじゃん)。


ですので今日は、党派性に関してはこういった見方もできるんじゃないか、というのを少し考えてみました。以上、ご清聴感謝いたします。