生計を立てる話

就職活動をしていた頃の出来事。

大手町に所在する某企業の本社で面接試験を受けたその帰り、山手線に乗って秋葉原へ行くため、東京駅へと向かった。

東京駅と大手町は実際とても近いとどこかで聞いていたが、まさかこれほどまでに短い距離とは思わなかった。

本社を出て、大手町を抜け、丸の内のオフィス街を、就活中の学生と気取られないよう、周りに歩調を合わせながら早足で歩き、日本を代表するらしい大企業の巨大本社ビルを横目にしながらも、擬似丸の内ビジネスマン気分を味わうほどの時間は無く、東京駅を視界の左側面、10時から11時の方向に捉える所まで行き着いた。

時間は午後の4時頃だったと記憶しているが、定かではない。とにかく夕暮れ時だった。

横断歩道を渡ろうとしたぼくの視線の先に、靴磨きの人を見とがめた。

出口から大量に排出されるサラリーマンの波に、その姿はかき消され、しばらくするとまた浮き出てくる。

東京駅といえば東京のど真ん中。いわば日本という国家の中心地でもある。皇居も至近だ。

そこに一見不釣合いな靴磨きが鎮座している。



靴磨き、さお竹屋、スーパーの駐車場でかき氷やらお餅やらを売る出店などなど。

彼らを見るたびに、果たして儲かる稼業なのか否かという非常に現金なことを考えずにはおれない。

出店の場合、老いた夫婦が揃って働いている姿なんぞを見てしまうと、えもいわれぬ気分になる。スーパーの中に入ってもしばらく頭から離れず、あげくどこかに手や足をぶつけたりする。

この仕事で生計は成り立つのだろうか。でも夫婦揃って老齢年金を受給すれば生活はなんとかなる。しかし満額貰えていないと苦しいんじゃないか。むしろ生活がキツイからこうして仕事に出ているのだろう。でもそのつらさを癒すくらい稼ぎがあるのだろうか…など、考えても大体は堂々巡りで、しかもそのうち忘れるのだけど、買い物を終えて店内から出るときに、彼らの姿を再度認めて、ぼくの胸までキュッときつくなる。

見てはいけないものを見た感覚、というのか。

鼻持ちならぬ、あるいは偽善的、とでも言おうか、または上から見下ろしたような眼差しとでも形容できるのか。彼らとの間へ無意識的に一線を引いている態度が、自分で気に入らない。



東京駅の靴磨きの話に戻ろう。ぼくは、実際に靴を磨いて貰おうかと考えた。そしていろいろとお話を伺おうと思った。頭の中で、こんな質問をしようとか、気難しい人だったらこういう切り口で話を進めていこうとか、いろいろシミュレーションもした。少しくらい稼ぎの足しにもなるかなと、生意気なことを考えもした。

いま少しで靴磨きのおじさんに声をかけるところだった。はっと、ある懸念が脳裏を霞めて消えた。

自分の革靴を見下ろした。すごく、綺麗だった。クワガタムシの羽みたいに黒くなまめく輝いていた。そう、出かける前に自分で磨いたのだから…

だから、磨いてもらうのは諦めた。


夕方の光景が辺りに広がっていた。西に傾いた太陽の光が人や建物を照らし、ぼーっと長い影を作る。大気に色があるとしたら、それは昼ほどに濃くはなく、ほのかに薄い。

西日を斜め上から受ける靴磨きのおじさんは、夕暮れ時のもの寂しい雰囲気を表象しているようにも見えた。






「夕暮れ時は淋しそう」って歌が、昔あったなあ。

俺たちのフォーク

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