存在の表象への降格への「抵抗」

そこにあるものがないものとして扱われる。意識の下においてはつまり無視される。

そうし得ないとき、そのものが邪魔な存在ならば、意図的に排除される。

どうして邪魔になるのか。“多数派”が共同主観的に所有する意味世界の、整合性を保つためである。

澱みない、綺麗な文脈を持つ美しい世界に刻まれた傷を、暴力で埋めることは恐らくできない。

傷は多くの人間によって刹那的に自覚されるが、間を置かず忘却される。

癒えることはなく、増え続けていく。

もう少しだけ深く問うてみよう。傷の埋め立てをすべきなのかどうかということ。

傷は、世界を整理しようとする大きな圧力に頚木を穿ち、土台無理な合理化に抵抗する。

むしろその存在が既に抵抗と化している。

さらに問いを進めよう。

何者にも強引に意味を押し付ける、その必要はあるのか。どうして人は意味を求めるのか。どうして無意味を見出しておきながらそれを嫌悪するのか。

傷はその愚を人間に警鐘する。いつまでも古傷を無視していてはいけない。

現存在をそれとして受け入れる。無理な意味化は逆説的に、それ以外の意味を喪う契機に他ならない。そういうことも往々にしてあると、私は思う。

しかし目下、意味の応答可能性を保持しておくことが、現実的な戦略として採用されようか。




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