未来からのファシズム

「早く自分の本当にやりたいことを見つけて、それにむかって邁進してください」

われながらよくもこうのうのうと、心にも無いことが言えるものだ。

今度、大学で行われる就職懇談会とやらの講師を務める運びとなった。

いま、その原稿を考えている。原稿を考えながら自分の就職活動を振り返り、そして更にその先のことに思いを致す。

自分がこれから就く職は、ほんとうに自分がやりたいことだったのか。

やりたくないことではない。そしておそらくやりたいことだと、これはけっこう本気で思っている。

しかし本心を言えば、一流旅館の道楽息子のようにぷらぷらしながら日々の生活を送ることができたら、それは最高だと強く感じている。

でも実際のところぼくの実家は普通のサラリーマン家庭だから、パラサイトするわけにもいかないし、でもほんとうはなんだかんだで面倒は見てくれそうだけど、なによりぼくの小市民的な自尊心がそれを許さない。というよりも社会的に許されない。


あなたが死ぬまでにはとうてい使い切れないほどのお金を差し上げますから、今の仕事を辞めてください。そう誰かに言われたら、ほとんどの人がその言に従うと思う。むしろそんなお金を手にしたら、あるいはもともと持っているとしたなら。

それを考えれば、ほんとうに自分がやりたいことをしている人というのは、何らかの職業に就いている人々の中で考えれば、それはほとんどいないんじゃないだろうか。

誰だって、働かないで暮らしていけたらそれが一番でしょ。

でもそうは問屋が卸さないから、働く。

たぶんどこか、具合のいいところで妥協して。あるいはさせられて。

具合がいいのは、本人じゃなくてその周りにとってなのかもしれない。

いい大学に入っていい会社に就職すれば、家族はそりゃあもう喜ぶ。でも、ぷーになってしまったら、さぞ悲しむ。

おせっかいは、「あとで苦労するよ」とか「もっと現実を見ろよ」とか、「なーんにも分かってないな」とか知ったような口を聞く。

だけどほんとうにそうなのかな。言われた本人には分かりっこないさ、未来にどうなるかなんて。

言っているおせっかいは、それに輪をかけて何にも分かっちゃいないんだろう。

先日、大学の先生と2時間近くよた話をした。

教授はこういった社会の傾向を「未来からのファシズム」と断じた。

みんなでよってたかって、若者に既に敷かれたレールの上を歩ませようとする圧力。

そのレールの行き先は、必ず幸せという終着駅につながっていると信じている。

でも、それはほんとうなのかな。

ぼくにはよくわからない。


と、リリー・フランキーを読みながら感じる今日この頃。

ボロボロになった人へ (幻冬舎文庫)

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